同潤会女子アパートメント2

[no.006/4/17/2003]

同潤会大塚アパート23月21日、三連休の初日、空は抜けるように青く、静かに拡がっていた。同潤会大塚アパートの屋上から見る東京は、どこか静まり返っているように見えた。休みでガードマンがいなかったので、工事中のシートをめくってアパートの中に入ると解体はかなり進んでいて、躯体を残すのみだった。


壊されていない階段を組み合わせて屋上をめざした。途中、廊下を抜けた。すえた匂いが鼻をついた。汗がしみ込んだ衣服を何日かして嗅いだときのあの匂いだ。もしかしたら部屋の畳にしみ込んだ住人の汗の堆積なのだろうか。私には建物の体臭にも思えた。

『WAVE』の特集でいろいろな廃墟に入ったが、匂いを感じたのははじめてだ。建物がまだ生きているのだ。気にかかって洋室の階の廊下も通って見たがやはり同じような匂いがする。畳に滲みた体臭じゃないのか? 人の体臭が残っている建物、そして人の住んでいる記憶が残っているうちの解体なのだ。廃墟と呼ぶには余りに生命体に近すぎる。

建物の解体を止めることはできなかった。それは20日にはじまったイラク戦争を阻止できなかったことへと重なる。建物の解体すらとめれないから戦争も止められないのだ。傲慢な考えかもしれないが私はそう思った。国際世論ぎりぎりの中での開戦だった。だからバランスを壊すように日本が反対したらどうなったか分からない。
日本は原爆を落とされた唯一の国だ。どうして原爆被爆国という記憶を盾に反対を声明しなかったのだろう。国自体にその記憶が失われたのだろうか。

フランスの反対もロシアの反対も利権絡みのことだから、簡単には評価できない。しかしヒットラーの行為を記憶にとどめている国、ドイツは終始反対を貫いている。

屋上から同潤会大塚女子アパートを見ると外壁だけ残して内側がきれいに壊されている。ピンポイントで照準を合わせ、建物の内部を破壊する爆弾で破壊されるバグダットの建物も、この同潤会大塚女子アパートのように壊されているのだろうか。

しかし呑気に屋上に立っている私と、バクダッドの破壊された建物に佇む市民との間には、想像を超える乖離がある。
建物が破壊されて保存・再生そして公開要求という同潤会大塚女子アパートを巡る一連の運動は、終止符を打たれた。このメルマガで公開を求める署名運動について協力の呼びかけをさせてもらったが、たくさんの署名をいただきました。感謝しています。これまでの運動のアーカイブ、そして記録などをまとめる作業に入っているので、署名をいただいた方には御報告します。

建物の記憶を多くの人と共有できなかったのはとても残念だ。記憶を共有するというのは、現在や未来の文化のためにもかなり重要なことだろうと思う。たとえば、現在の演劇界が寺山修司の記憶を共有していないということは、様々なマイナスを生んでいると思う。みなが同じ記憶や知識を持つ必要もないが、コンセンサス、常識という形で、先人の仕事を共有することは大切だ。

4月15日。同潤会大塚女子アパートは完全に解体された。解体されたことも残念だが、建物の記憶を多くの人に引き継ぐことができなかったことが最も悔やまれることだ。多くの人が心を合わせて動いてくれたのに、それを結実することができなかった。9.11以降、世界は変質しつつある。その現実に対応する新たな方法が必要なのだ。