われに五月を

[no.007/5/20/2003]

京大西部講堂でのペヨトル・ファイナルから一年。そしてまた五月が巡ってきた。『夜想』復刊を決めてからさすがに身の周りがあわただしく久しぶりの作家訪問が続いている。阿佐谷の駅から地図を頼りに、今度雑誌に登場してもらう作家のトレバーのアトリエに向かうと、ふっと河北総合病院の前に出てきた。忘れていたわけではないが、その日は五月四日、寺山修司の命日だった。二十年前の今日、寺山修司は河北総合病院で死去しているのだ。思わず手を合わせた。

二十年はあっという間のことだ。寺山修司が死去して、天井桟敷の若松武と劇団を組んだりしたことを思い出せば、二十年の間に演劇状況も、ペヨトル工房も、そして私自身もずいぶん変わり、それは間違いなく長い年月なのだが、寺山修司がふっと地上から消えたその印象が余りに鮮明で、記憶の始点がどうもそのあたりに引っ張られ、時間の感覚が狂っている。

ペヨトルの終結宣言をしてから、過去ばかり見ていると、最近、指摘されてぎょっとしたが、この十年、確かに後ろを見る機会が多かったかもしれない。『夜想』は、寺山修司、土方巽、中井英夫、松田修、由良君良、澁澤龍彦などの先人たちに憧れて作ってきたところがあるので、鬼籍に入る人が多くなると必然、雑誌も組みにくくなる。おのずと後ろを振り向くようになる。

『夜想』を創刊した1978年、幻想的なものはひろく行き渡っていなかったので、やることは単純だった。マンディアルグも全訳はされていなかったし、夢野久作もベルメールもまだローカルな存在だった。今や喫茶店に複製が飾られるクリムトも知名度はかなり低くかった。だからそれを特集していくだけでよかったのだ。しかし十年、十五年たって、幻想的なものはかなり定着して当り前のものになった。

しかしその中でまたマンディアルグはまた知られざる存在に戻りつつある。ベルメールはポピュラーになった。幻想の地政分布は思っていたものと少し異なるものになっている。寺山修司の受けとめられ方もぼくが実際に天井桟敷と過ごし、演劇を通じてできあがったイメージとだいぶ違うものだ。当然のことだろう。没後20年、寺山修司の演劇をDNAとして継ぐ演劇もないし、また検証もされてこなかった。先が見えないし、現在も複層化して分かりにくくなっている。

ほんの二十年のことがきちんとした歴史になっていかない、この不可思議。ほんとうに泡沫のようだ。時系列を並べて記憶するテープがすたれて、過去も現在も並列にマッピングされる記録メディアが主流になった。それもしかたのないことだ。20年前も今も並列に記録されている。DJはそれをミックスして現在の彩りを作り出す。もとのまま、素材のままで提示されなくなってきているのだ。

彩りは何度でも組み換えられるしその度ごとの個的な感覚で作られる。今、この時代に『夜想』を復刊するということは、その影響を受けずにはいられない。まったく新しい『夜想』を作るということになる。近々でも『MRハイファッション』(文化出版局)が休止になる。凄く良い雑誌だったのに。『幻想文学』(幻想文学界出版局)もついに休刊になった。状況はきつきつだ。雑誌の成立はなかなか難しいだろう。復刊は暴挙なのだろう。

『夜想』復刊といっても会社組織、編集部組織をもって復刊することは不可能だ。あくまでも個人の作業としてやることになる。個のネットワークの集積でどうにかやっていくことに賭けるほかない。直売とインターネット販売が流通のすべてだ。戦略はない。この時代戦略を組んで成功するならこんなに雑誌が消えていくことはないだろう。ペヨトル解散の時にたくさんの人がペヨトルの本を救ってくれた。復刊する『夜想』も多くの人の助けが欲しい。

ヘルプは、直の店舗を紹介してくれることでも、どこかの紙面で宣伝してくれることでも、お店の片隅で売っていただけることでも構わない。個の集積から再び雑誌を組み上げていきたい。それで可能なのかどうか分からないが、やってみようと思っている。復刊の『夜想』は在庫場所がないこともあって限定三千部で「ゴシック」の特集をする。復刊記念に金子國義さんのトレーディングカードをこれまた限定千部で発行する予定。

われに五月を、と言った寺山修司は、その五月四日に逝去した。父親もまた五月に死んだ。五月は私にとって死の匂いに充ちている。しかし五月の死はいつまでも記憶のなかで古くならない、生きている死なのだ。『夜想』はある意味で屍体を扱う雑誌であった。しかしそれは生きた屍体でありたいと思い続けていた。

われに五月を。『夜想』は五月に再び走り出した。