夜想日記2

「比叡山・根本中堂内陣」


あなたが、来ると必ず雪が降るねぇ。田岡は誰に言うともなく鉛色の空を見上げた。粉雪が田岡の黒のラテックスのジャケットをころころと落ちていく。空気が乾いているので雪の結晶が肉眼でも見える。
「寒いなぁ。こんなところまで連れて来てさ、もうそろそろ僕にも良い思いをさせてくれても良いんじゃないの? 僕の名前を利用しているんでしょう?」
「そんな下品なことを言うと、らしくないよ。」
顎髭の無精をなでながら田岡は、応じる気配がなかった。
「頭を下げて。ぶつかるよ。」
鼠口ほどの木戸を潜ろうとした私に田岡は、命令口調で言った。
「ちょっと待って、目をつむって」
私は、敷居を跨いだ中途半端な姿勢のまま動きを止められた。ちゃっちゃっと冷たいものが頭に飛んできた。
「変な匂いがするな、この水……」
「これで内陣に入れる身分になった。時間は1時間」

私は、気がつくと座布団ほどの小さな一枚の畳の上に座わらされていた。見上げると台座にのった薬師如来。振り返るとかなり高いところに御簾がたれていて光が入っている。巨大伽藍の最も深いところにいるようだ。周囲には僧侶達が並んで経を詠む床が段になっている。もしかしてここは比叡山・根本中堂? しかも比叡山の僧侶のみが入ることを許されている内陣かもしれない。それが証に不滅の法灯もある。間違いない。ここは根本中堂だ。

「比叡山は信長の焼き打ちによって3000人が死に、全山が灰となった。復興は天海和尚の手になる。」
「天海和尚というと、107歳まで生きて徳川三代に仕え、上野寛永寺を開山し、日光東照宮を開山したあの天海和尚ですよね。」
「江戸の鬼門に日光東照宮を置き、徳川三代とともに身をもって鬼を東照宮に封じ込め続けていると言われているあの天海。しかし僕はその遺体はこの薬師如来の下にあるとにらんでいるんだがね。」


話しに息苦しくなってきた私は大きく深呼吸をした。伽藍の中に吊るされている無数の龕灯が揺れ始めた。龕灯の中から不滅の炎が揺らめいて宙に浮いた。自分の身体が揺れているのか、炎の揺れが自分の身体を揺らしているのか分からなくなってきた。信長を暗殺した光秀は、比叡山の麓の坂本に城をもっていた。余りに謎めいている天海には、光秀が生き延びてなったという説もある。いや、天海は死なない肉体をもっていたのかもしれない。思い巡らせているうちに炎の揺れがさらに激しくなって、薬師如来すら揺らいで見える。台座が音を立てている。無数の炎の彼方に黒い男のシルエットが浮かびあがった。

「田岡さん。幻覚剤かなんか使った?」
「いやいや、疲れて眠っていただけですよ。あなたはずっとシャム領事館の地下でこの椅子に座って寝ていた。まちがいなく、そういうことです。」
田岡は、カチリとジッポーのライターを音をたて、炎を大きく立てて葉巻に火をつけた。