無明

夜想日記4/2003/2/19


『夜想』も手伝いたいんですが、それは駄目ですか?
もちろん手伝ってください。本当はそのためにペヨトルに来たんでしょう?
そういうやりとりを2003年1月11日にメールで交換してから音信が途絶えていた。ペヨトル工房のホームページの更新やチェックをメールで頼むと、彼女は元気にメールを返してきてくれた。そうして何回かのやり取りがあって、ショップを再開したいのだがと頼むと、誰に聞いたのか、『夜想』復刊へ向けて動こうとしていたのを、彼女は察知していて、そう聞いてきた。もちろん手伝って欲しい。そう思った。
ショップ用のいくつかのデータを送るとそれきり返事がなくなった。彼女がかなりきつい鬱状態で強い薬も使っているのを知っていたので、負担になったかなとそれ以上、催促はしなかった。
そして一本の電話が入った。「彼女は自殺しました。」彼女の友人からの通告だった。自殺してから一ヶ月がたっていた。
元気な感じのメールをやりとりだったのでショックだった。青木ひろみさんは、解散後のペヨトル工房の動きを現場で支えてくれた最後の社員(バイト)だ。解散をした後、在庫を守ろうという運動がネット上で起こり、具体的に作業がはじまりそうになって、僕が「嬉しいけど発送とかが一人じゃできないから……」と根を上げていたら、ネットを通じて手伝いましょうかと声をかけてくれた。会うと元気そうな人だったし、なにより「ペヨトル工房の本が好き!」というのが伝わってきたのでお願いすることにした。
彼女は、毎日きちんと通ってきて、在庫の出荷を黙々とやってくれた。梱包が丁寧で上手だったので、納品先からは喜ばれて、青木さん、青木さんと可愛がられていた。しばらくして彼女が鬱を抱えていて薬を使っているのを知ったが、毎日きちんと仕事していたし、作業に支障はまったくなかったので余り心配はしていなかった。2年間、彼女は4万冊にも及ぶ在庫の出荷をし続けてくれた。もちろん彼女は元気なペヨトル工房を手伝いたかったのだろう。作業が進めば進むほど、ペヨトルと本当のお別れの日が近づいてくると、彼女は寂しそうだった。
『ペヨトル興亡史』を読んでもらえば彼女が如何に頑張っていたかは分かってもらえるだろう。本当によくやってくれた。西部講堂のペヨトルファイナルを打ち上げて、解散のすべての事柄が終了して、ホームページも閉めようというときに、青木さんは私にホームページをくれませんか、アーカイブとして私のサーバーに載せて置きたいんです。そう言ってくれた。以来、このペヨトル工房のホームページは青木さんのサーバにのっている。

 

青木さんが『2ー』の特集のためにプレゼントしてくれた常用薬


鬱のことは安易にコメントできない。以前、肉親を鬱による自殺で失った人にたまたま話しを聞いたことがあるが、後に残った人にもかなり長く精神的影響を残す。鬱の父親が自殺してアーティストの話を聞いたこともある。そのころから鬱というのは、癌などのにも匹敵する大きな病なのだと自覚するようになった。本格的な治療体制が必要だ。その気持ちが『2ー』の『ドラッグ』につながっている。

鬱という病気にかかった人の気持ちを推し量ることはできない。自分自身もちょっと近い状態になったことがあるが、いつもいつもネガティブなことが頭から離れず、身体が動かないという日が続いたことがある。どうやっても頭がその深い闇のような状況から抜け出せない。脳が青く染まっていると思った。

青木さんは『2ー』の『ドラッグ』特集で匿名でインタビューに応じてくれている(62p〜63p)が、あのころは元気だった。でも見かけだけだったのかもしれない。彼女の気持ちの入ることはできないから分からないが、自分の体験した闇のような脳の状態のもっと酷い状態を抱えていたのかもしれない。光のない闇、混沌の世界に彼女は生きていたのかもしれない。

いなくなってしまった青木さんにもう私は何もできない。死に至る気持ちを理解することも実際には難しい。なってみなければ分からないのが鬱だろうから。ただ、弔いのために何かをしたいと思う。

合掌。夜想とペヨトル工房を愛してくれた人のためにももう一度何かをしたいと思う。

 

 

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