無明2

夜想日記5/2003/3/04


 おためごかしに都合のよいことは言える。後になったら。
 例えば「やる」と言ったとき、それが夢のようなことでも、実現に向けて動くことや、動く意志のあることが、大切だ。相手の姿が見えないネットでの会話でもそれが現実を変化させる。
 何度も書いていることだけど、あべの古書店のAyameXがネット上でペヨトルのために何か具体的なことができないのかと書いて、それから行動してくれたから変化が起きた。青木さんも手伝うとメールで言ってそれが現実になった。そしてペヨトルの最後が変わった。
 生身のAyameXさんとはほんの少ししか話したことがない。しかもそれはネットでAyameXさんと多くの対話を交わした後のことだ。ネットは頭脳と頭脳で会話するテレパシーのようなもので、重要なことがそこで交換される。青木さんにしてもそうだ。ネットで出会って、そして一緒に仕事をするようになっても重要な話しはメールで交わしていた。 
 そのAyameXさんと青木さんがメールで重要なことを話しあっていた。それを先日知った。当り前だがそこにはまた私の知らない青木さんが居て、ペヨトル本の最後について苦悩していた。(AyameXさんの許可をもらって転載する。青木さんには事後承諾になるけど許してね)
あべの古書店です(AyameX)
以下は9・11テロ直後、青木さんからの返信の一部です。
(AyameXから青木さんへ)
> 再度、
> なしくずしに「たくさんの本が助かってよかたね」
> などというお花畑的心情になることを拒絶し、
> 延命装置を切るべきではないか。
> 依然としてあちこちで本は殺されているのだし、自分はその事実をきちんと
> 現実として、痛みとして、己の無力さを受けとめるべきではないのか。
(青木さんからAyameX)
これもものすごいジレンマでした
でも、昨日で全ての延命装置は外されました
そして 更に悪いことに
「断裁しないとどうしようもない」
という状況下 日々 断裁指示を出しつづけて
もう、すっかり麻痺してしまいました
麻痺しないとやっていけなかった。
MLで濃い話を今野さんとしていたピュアなわたしは
自ら殺しました
救えないものは救えないのだ と。
そう思わないと経営的に更に悪化するだけだ。と。
わたしは非力です
救いたい と差し出した手で
その同じ手で
平然と本を殺し
しっかりバイト代を貰っている
わたしが殺した本を
今もどこかで誰かが探して
見つけられずにいる
見つけられないのは
そのひとのパッションの不足とも言えるし
因縁力の欠如とも言えるし
一概にそうとも言えないし
もっと、救ってあげたかった
けれど
救えた分を 救えただけで良かったと
そう 思いたい です
花畑心情だったり、冷徹だった 揺れ動きながらも
読まれてこそ本 だと。
 この二人に対話を読で思ったのは、本は自殺しない。ということだ。本は殺さなければ消えないのだ。ペヨトル工房の本は私が生み出したものかもしれないが、生まれてしまったものには生きる権利があり、誰かと出会う権利があり、そして思ってもらう運命にあるのだ。私に断栽をオーダーする権利は本当はなかったのだ。
 本を救うためにペヨトルに来た青木さんが、最期に断栽指示を出さなければならなかったのは、想像を越えた辛さだのだ。それを分ち得なかった私は、後から彼女を追悼することはできない。
AyameXさんはこう書いている。 
 青木さんが愛したディックの小説、
『アンドロイドは電気羊の夢をみるか』には
こんな場面がありました。
人間は他の生物はもちろん、
生命がないものに対してさえ、共感してしまう、
だから人間は弱いのだ、
そうアンドロイドは言うのです。
そこなんですね。
無機物は人間を愛さない、
でも、人間は無機物を愛してしまう。
死者は我々を愛しはしない、
けれども我々は死者を愛してしまう。
存在しないモノに対してさえ、心を動かしてしまう。
 
 モノを愛しすぎると弱い人間は壊れてしまうかもしれない。でも弱いと分かっているからこそ溺れるほど愛するのだ。破滅しようともアディクションするのだ。
 モノを愛しているがモノの愛は期待しない。それはクールな愛というのではない。無償の愛でもない。どちらかと言えばフェティッシュな愛なのだ。ただし一時代前のエロティックなフェティッシュとは異なる。モノを擬人化したりしない。モノそのものが良いのだ。
 返ってくる愛を期待しないで生きていてあるときふっとそれを期待したとき、それは限りない寂しさとして身を削る。青木さんはそれを体験してしまったのではないだろうかと思う。
 ペヨトルのファンサイトに青木さんの文章が収録された。『ペヨトル興亡史』用の文章で、締め切りが間に合わなかったりで掲載されなかったものだ。そこにはまた私の知りえなかった青木さんがいる。
 青木さんは鬱のサイトでかなり濃い会話を日々交わしていたはずだ。(そのことは聞いたことがある) 光を期待できない闇、その闇で彷徨う希望のない感覚、そうしたことを日々語っていた彼女も存在していたはずだ。
 ネットの言葉はピュアで即行動につながるものもあれば、また妄想のような嘘もあり、奇麗にまとまった話しもあり、そして人を意識的に誹謗する言葉もある。ネットゆえに存在する悪意というものものある。紙の上に書かれた嘘は見分けやすく、その幅も限定されている。ネットでの真実は限りなくピュアで、ネットの嘘は無限大だ。その無明に彼女は生きていたのだと思う。純粋すぎるほど純粋に。

 

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