本の屍体そして夜想復刊

夜想日記7/2003/4/23


伝説の雑誌だったらしいですよ。三号雑誌で終わっちゃったんだけど。何か古本屋さんで高い値段がついているんですって。
青山ブックセンター新宿店には『血と薔薇』のコーナーがあって、何故か、金子国義の本などに混じって、岩波の写真文庫が関連商品に並んでいる。良く分からない。


『血と薔薇』ってどんな雑誌なんですか、こういうの好きなんですけど……と聞いたのは、営業に来ていた建築関係の出版社の人、答えているのは青山ブックセンターの店員さん。その脇で見ていたのがボク。

『血と薔薇』三冊セット、復刊でも復刻でもなく復原された伝説の雑誌。10年ほど前、に雑誌のオーナーだった人から、『夜想』の編集長なら『血と薔薇』を復刊できるだろうと言われて、その気になって企画書を書いたことがある。今ならこんな感じの『血と薔薇』がデカダンスだろうと。もちろん澁澤達彦の名前は書かなかった。創刊時の『夜想』とも違う雑誌にしたかったから。


メールであべの古書店のアヤメックスさんと話をしていたら、


たぶんオリジナルからスキャニングして、そのまま印刷製本しているのではないですか?とてもイヤナ感じがしました。
あれは屍体です。どうしようもなく死んでいる。

ボクもまったくの同意見で、ちょっと哀しかった。復刊なら良いのにと、即座に思った。青山ブックセンターの『血と薔薇』コーナーには、当時の編集方針がでかでかとコピーされていたが、それは今に全く意味のないものだ。今、何故、復刻したかの宣言のほうが必要だ。そうしなければ『血と薔薇』という雑誌とその伝説に失礼な感じがする。


「4号」を外したということもイヤナ気分です。


アヤメックスさんはそうも書いてきた。復刻には全三巻と書かれているが、『血と薔薇』には4号が存在する。責任編集者が代わりトーンも異なる第4号を無いものにしたい気持ちも分かるけれど、これも何か変な感じがする。今になって雑誌の歴史を書き換えることもないだろう。だいたい原稿を書いた著者に復原の許可をとったんだろうか。


幻想文学には、愛する人の死を嘆き、
死者を復活させるという禁忌を犯してしまう人物が よく登場し ますが、
たいがいはろくでもない結果になってしまう。
『血と薔薇』を目にし、ああ、こういうことだったんだなあ、と書物のコンテンツ、テキストは、本体が死した後も生き続けますが
「物」としての書物、器=肉体は、滅びるのが理というものでしょう。
再生するべきものではない。
だから、テキスト=魂を、新しい肉体に籠めてやるのが、
書物を愛する人間の作法ではないでしょうかねェ。

アヤメックスさんはさすが古書店の人。本の生理とはこういうものだろう。もちろん『血と薔薇』の復原にぶつぶつ言っているボクのほうにもしっぺ返しがあるかもしれない。サヨナラ・ペヨトルのイベントをあれだけ盛大にやってもらって、ボクは、その上で今『夜想』を復刊しようとしているからだ。大丈夫か? 今まで出版してきた『夜想』に恥ずかしいことにならないか?

アヤメックスさんは非常に重要なことを書いている。テキストと物質をともなったイメージのハーモニーで『夜想』はできあがってきたが、その黄金比率はいまは通用しない。しかし本はそもそも黄金比率をアプリオリにもっているものなのだ。本はその矛盾のなかでパッチをあてられずもがいている。答えのないままボクは復刊をめざす。復刊号の特集は『ゴシック』。

 

 

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