解散日記47

 3月9日

 

古本屋さんという本屋さんについて

 

あべの●●今野さんの文章で新刊書の流通の実状を知り、驚くことしきりです。特に書籍の物理的な取り扱いのひどさについて。例えば私たちは、カバーが破れた本を補修して棚に出します。破れ目がそれ以上広がらないように、カバーをパラフィン紙で包んでしまいます。 こうすれば棚から頻繁に抜き差ししても問題はなくなる。 古書店が書籍のカバーにパラフィン紙をかけるのは、ただヤケや汚れを防ぐというためだけではないのです。オビ付きの本ならばオビの保護にもなります。(すぐに破れますからね、オビは)

今野●●カバーは、汚れ隠しではないんですね。先日、ボクの友人があべのさんから「銀星倶楽部」を買いました。「三月書房」のHPに行って4冊購入して、その後「あべの古書店」からペヨトル工房での品切れ「銀星倶楽部」を手に入れたということです。あべのさんの包装を見ましたけれど、美しいですね。あのパラフィン状態であべのさんの書棚に入っているんですね。

あべの●●古書店主は概ね、お客の本の取り扱いにうるさいですね。たぶんそれは店に置いてある商品が、全て自前で買い取ったものであるからでしょう。返品がききませんから、神経質にもなる。

今野●●以前、解散日記にも少し書いたけれど、書店の本来の姿勢ですよね。別に古書店に関わらず、三月書房さんのような書店にも言えることだと思います。

あべの●●ところで、古書業者は書物の救済者であると同時に破壊者でもあります。新刊業者が故意に書物を破損させることはないと思いますが、古書業者はそれをやります。どうしても売れる見込みがないような本は、最終的に古紙回収業者に引き取ってもらいますが、どういうわけか、その処分した本がまたもどって来てしまうことがあるのです。古紙回収業者も古書店に出入りします。彼らが彼らの裁量で、これはと思う書物を古書店に持ち込み、それを換金してゆくわけですね。ですからあべの古書店が業者Aに引き取ってもらった処分本を、業者Bが「仕切り場(古紙の集積場)」で見つけ、それをあべの古書店に持ってくるというような珍妙な事が実際起きるのです。そうした事態を避けるため、私たち(私はまだそれをやったことはないのですが)は、書物に引導を渡します。表紙、裏表紙を破り取って破壊してしまうのです。こうすれば古紙業者がその本を再度持ち込むことはありません。

今野●●いや、これは新本の製作者であるわれわれも同じです。棄てた本が、拾われて別ルートに乗ることはあるんです。だから捨てるときは同じように表紙、裏表紙を破ってすてます。ほんと哀しいですよ。この作業は。ずいぶんやりました。倉庫の断裁処理も本当に断裁したかどうかの証明書をもらいます。そうでないといくらでも流れます。だから棄てるならタダに近い値段でも、断裁だと費用がかなりかかります。それでも断裁しないといけないのです。ですから、本を作るこれまでの経験の中で、心は充分に傷ついているので、本なんていくらでも切れるや(反語)という姿勢ももっています。

あべの●●売れない、何が悪いんだろう、何か方法があるはずだが、うーん判らない、仕方がない断裁だ。ええい、このことをディスクロージャーしちゃえ!これが解散日記の発端ですね。私はこれはダンディズムだと思います。書物に「引導を渡す」者として、その姿勢を支持するのです。ピーター・ブルックもこういうイカス文句を使うじゃないですか、「死守せよ、そして軽やかに手放せ」。版元に言いたいのは本を「殺すな!」ということ。しかし、私たちのこの世界、時には殺さなければならないことがある→断裁。それを非難したりはしない。だが、断じて中途半端に殺すな!→ゾッキ、安売り(ただし、倒産会社のゾッキはこの範疇にあらず)。

今野●●そうですね。ボクがゾッキをしないのは、その感覚に近いかもしれませんね。定価で売りつつゾッキにも出してという姿勢はとても自分では納得いかないものです。片一方で、棄てなくてはならないようなゴミのような大量の紙の山である本を扱いながら、一方で本を愛してカバーをかけて、読み込んで、推薦して売っていく古書店の書店員さん。それは、古書的に価値があるというだけの判断ではないということは、あべの古書店のHPを見れば良く分かることです。ここにまさに日本のいまの本の流通と制作と販売の歪みによって起きていることが、看てとれます。そして本の再生もまた、このあべの古書店のような姿勢と態度をもってして初めて可能なのだと思います。

 

この文章は「あべの古書店」の鈴木大治さんとの対話をもとに構成しました。



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