解散日記7

6月08日

 

解散にあたって、流通がどうしたの、書店がどうしたのと外のことばかり書いているけど、自分はどうなのというメイルをもらいました。ちょっと反省しています。たしかに、他人のせいにするつもりはなかったけれど、ペヨトル工房自身のこと、ボク自身のことを書かないと、解散ということは見えてこないだろう。自分自身にも。

 

もらったメイルはこうです。

ペヨトル工房のいち愛読者です。解散日記をずっと読んでいます。ああそうなのか、会社とか物事が終わるのはこういう作業と、こういう人との関りがあるのか、と妙な感心をしてしまいました。

でも、私の一番関心のあること、聞きたいことがまだ出てきません。待っていようかと思っていたけれど、「友達の書店に足下を見られて・・・」というような話になると、悲しくなるので(ペヨトル工房がいぢめられて可哀相とかじゃなくて、そんなこと書かなくていいのに、ということです。)

「どうしてこうなったんだろう」と言う問いに、日記には、書店のシステムが変わった、書店の店員さんが変わった、読者が変わった、と書かれています。すべて、「うん、そうだ」と思う。だけど、私が一番関心あるのは、「今野裕一は、どうだったんだろう」ということ。20年間で、何が変わったの? 変わらなかったの? 何者から何者になったの? 何を得たの? それから何かをなくしたの? 

ということです。

自分の未来を見ているように、自分のことのように、関心があります。

「これからもがんばって」とは言わないけれど、ただ、それだけを教えてください。 

いち読者より。

 

本当は、自分でこの問いと答えを模索していかなければならないんだろうが、まずは、質問に考えながら答えてみます。

何が変わったの?何が変わらないの?

「夜想」は、若い作家、あるいはこれから作家になろうとしている人たちの何らかの役にたてばという思いで作ってきた。その姿勢は今も変わらないと思う。それが一番、変わらないものだと思う。作家に……という姿勢は、今は、「夜想」よりも「Ur」に色濃く生きているかもしれない。でも思いは変わらない。

 

変わったのは

「夜想」はボクの10代から20代にかけて、こんな特集をやりたいという思いを、そのまま反映している。ボクは30代になったころ、その思いをある程度、「夜想」でやりとげてしまった。その後は、やりたいという情熱だけでなく、雑誌をメデァとして生かすよう考えてきた。そして若い編集者が、自分と同じような思いをもっていたら、一冊まかせて編集してもらったりしてきた。

そこが大きく変わったところかもしれない。「思い」と「思いつき」だけでやっていたものが、「考え」による部分も入れるようになった。以前は、特集はほとんど勘のようなもので作ってきた。そして、アートに対しては、やっぱりコンセプトや自分自身のピューリティを気にして編集したりしてきた。

 

変わったことと、変わらないことの絡みで起きたこと。

たしかに「考え」のようなものを入れて作るようになったが、根本的には、編集の方法を余り変えなかった。以前はベルメールの特集を組んだだけで、竹中英太郎を見つけ出しただけで、アルトーの特集を組んだだけで存在意義があったし、影響力があった。今は、それでは駄目な時代になっている。どう編集意図を反映させるか、ディテールまで資料に目を配っているか。そんなことが大切なのだ。いまは情報はたくさんあるので、ベルメールだって夜想の特集以上の情報が、何十倍も手に入る。ポンピドゥーセンターにいけば、ベルメールの人形も簡単に見れる。昔は実に呑気だった。

基本的に、ボクは呑気なまま編集を続けてきて、時代遅れの編集者になってしまった気がする。

 

何者から何者になったのか

という質問に対する答えは難しいが、何者というような偉そうなことで言えば、黒衣の編集者からスタートして、今は、何だろう、もっと何者でもなくなってしまったということだろうか。ボクはもともと専門ジャンルがないので、20年も仕事をしてきて、美術評論家でも、舞踏評論家でも、まして実は、編集者でもない。それが、普通の編集者と変わっているところだろう。何者でもないものから何者でもないものになったんだと言うほうがいいかもしれない。いわゆる専門家というのは、専門知識と、専門の歴史を身体の中に入れておかないと駄目だが、ボクにはそれはまるっきりない。

新人の写真家の写真を見て、すごいな、この人は伸びる、よし特集しようということはできても、その写真がどのジャンルの歴史的視点からどういう意味をもっているかということは、さっぱり分かっていない。ダンスも、演出ぐらいはするが、アメリカダンスの歴史をおおまかにと言われても何にも分からない。もちろんアラベスクぐらいの形の名前は何となく知っているが、それ以上は何も知らない。世間が何者かというときの指標となるものをまったくもっていないのだ。だいたい編集の技術もないから、他の出版社で仕事できない。校正すらできないのだから。今では、あたりまえになったDTPをいち早く会社に取り入れているが、 QuarkXPressを使えるわけではない。実に、何でもないのだ。口で、あーせい、こーせいと言いながら、他人に雑誌を作ってもらってきた。そしていろいろなイベントをしてきた。謙虚に言っているわけでない、客観的にいってそういうことなのだ。

だから何者でもなかったし、何者でもない。

 

何を得たのか?

経験を得たかもしれないが、経験は、余り役には立たない。同じものを毎日積み重ねていくような仕事には、経験というか、毎日やっていることの上にしか、向上する積み上げはないから、経験は重要だ。でも、経験は臆病さや計算が自動的にたつというマイナスを生む。つまりめちゃくちゃな、できそうもない設計図を書かなくなる。だから経験を得てしまうが、経験はボクには余り欲しくないものだ。実績や世間体で仕事をするところに居ないので、キャリアは何も意味しない。

得たもので素晴らしいのは、感動と友人の信頼でしょう。インタビューをしたときに、相手の人の人生を賭けたものに触れさせてもらうことがあるが、これは得難い体験で、感動は快楽にもつながるし、一期一会のことも多いので、それは贅沢に体験させてもらったかもしれない。あと、人を裏切らないで仕事をした場合、次には人間を信頼してもらって、中身を示す以前に、共同作業が成立することがあって、これはやっぱり仕事をする上で、楽しいし、良い仕事ができる。信頼してもらっても、仕事は設計図を書き、示し、コミュニケーションをするのだけれど、ベースに信頼があるとさらに上のものが成立することが多い。

 

何を無くしたのか。

これはもしかしたら、逆の意味で信頼かもしれない。雑誌を20年もやってきて、それは良いことも、充実したこともやってきたが、期待を裏切ったり、一生懸命やってくれ人を傷つけたり、相当のことをしてきたと思う。社員と名のつく人たちも、数多くペヨトル工房を通過したが、いま、ボクと普通に話してくれる人はそう多くない。ボクのやり方、ボク自身に、恨みや嫌な感情をもったまま、辞めて今もそのままという人も多いのではないかと思う。ボクは、「夜想」をやってきてペヨトル工房をやってきて、その「夜想」とともに解散をするのだけれど、この場に居ない人たちの力を目一杯、使って成立してきたことを最後、ボク一人で終わらせるかのようなことを言っているが、まさにこの状態になっていること自体に、無くしたもの、失ったものがたくさんあることを思う。ペヨトル工房の同窓会は、ボクをのぞいたところでは成立するかもしれないが、それは、いま、ペヨトル工房に集まってきて成立はしないのだ。うまく言えないが、友情とか信頼を、ボク自身のやり方で失ってきたんだとおもう。(もちろん、今だに協力してくれる、小川功とか乾あゆみとか黒田とか関西にいる吉村とか、多くの著者の方とかはいるけれども。)



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