解散日記11

6月20日

 

どこまでも底に向かって落ちていくような、終電前の誰もいない日曜日の新御茶ノ水駅のエスカレーターを、ウォークマンで無伴奏バイオリンを聞きながら降りていくと、エスカレーターの銀の床が妙に気になって、でもパリのメトロよりもさらに似付かわしいのではと思ってみたりもする。耳元で鳴っているのは、ごりごりとしたギドン・クレーメルの無伴奏の演奏で、もちろん映画「シャコンヌ」を気取っているわけだが、無伴奏バイオリン「パルティータ」は、なんと地下鉄に似合うのだろうと改めて実感して、東京の地下鉄も悪くないなと思う。東京の地下鉄の方が無機質な未来的な雰囲気をもっているし。

自分の演奏に疑問を感じたバイオリニストが、ストリートプレイヤーとなって、パリのメトロで演奏を続けるという、映画「シャコンヌ」は、寄り添うように毎日聴きに来る、切符売りの女性が登場して、なかなかいい雰囲気になるが、パリのメトロにはほんとうにたくさんのプレーヤーがいて、アコーディオンでバッハのブランデンブルグの演奏を聞かされた日には、ちょっと考え込んでしまったが、パリジャン達は慣れているのか足を止めることもなく、すたすたと速足に通りすぎる。ボクも、切符売りの女性のように座ってゆっくり聞きたかったな。日本では、演奏するものもいない静かな新御茶ノ水の駅をボクは、さらに深く落ちていく。

ある日、バイオリニストが切符切りの女性と他のストリートプレイヤー演奏を聴いていて、いい演奏だねボクもあの曲を演奏しようかなと言うと、女性があなたは駄目よ、あの人は無心にひいているものと諭す。次の日、演奏に求道的なバイオリニストは、チェリストとジョイント演奏をして、メトロの観客を巻き込んで大騒ぎをする。それを見て切符売りの女性は姿を消してしまう。永遠に。ただそれだけのストーリーで、映画「シャコンヌ」は、できているが、究極、無伴奏バイオリンの「シャコンヌ」を弾きながら地下水道を船に乗ってく流れていくシーンを描きたいだけで作られた抒情的な映画だ。ここに描かれているテーマは、実は演奏を追及するビルトーゾの姿ではなく、理想の観客の存在についてだろうと思う。無心に演奏することと、観客に媚びて楽しく演奏することを一瞬だけ混同したために、バイオリニストは理想の観客を失うわけだが、これは芸術世界の永遠のテーマである。表現を理解されたい、しかし理解する観客がいなさそうだ、でも表現を追及したいというジレンマの中でアーティストは徹底的に苦しむわけだが、これは、レベルは異なってもいろいろなところで起きる問題でもある。

「夜想」に書きつづった駄文を本にしないかと青弓社の若い編集者が声をかけてくれたときに、その企画書を見て驚いたのだが、ボクは、観客について、観客のあり方についてずっと書き続けてきたのだ。人に指摘されて初めて分かった。その本にボクは「天使のいない夜」というタイトルをつけたが、天使とは観客のことを言っている。ボクは、長い間、「夜想」という雑誌をやりながら、すばらしい表現や存在に出会ってきて、それらを理解しない観客にいらついていたのだと思う。もしかしたら、いらいらを募らせたあげく、ボクには分かるのに、どうしてみんなは分からないのと、高慢な態度でになっていったのかもしれない。それを「夜想」の読者に見抜かれて現在のボクがあるのかもしれない。「夜想」を創刊したころはある意味で無心だった。分かる人が分かれば良いと、思いながらただ演奏しているプレイヤーのように雑誌を編集して出版していた。しだいに分からない読者にいらいらし、そう思いながら、売れるために、読者の顔を見たりするというまさに二律背反を起こしはじめたのだと思う。

そうしてボクはペヨトル工房をやめることになったのだが、「シャコンヌ」のバイオリニストは、森の中を駆ける理想の観客を夢見ながら、永遠に無伴奏バイオリンを弾き続けるのはあきらかだ。しかもメトロの地下を出ないままで永遠に弾き続けるだろう。バイオリンを失えばバイオリンを弾く仕草でプレイを続ける。ボクにはその気合いが足りなさすぎるのかも知れない。雑誌を失ってもなおかつ編集者であるかといえば、その気力がないかもしれない。



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